下田港:歴史  

長い間、徳川幕府では外国と交流しない方針「鎖国」がとられていましたが、その中でも静岡下田市にある下田港は日本で最初の開港場で歴史があります。

日本近海に、海外進出していたヨーロッパやアメリカの強い国々の外国船が現れ始めた1849年(嘉永2年)の4月、ここに初めて入港した外国船はイギリスの軍艦マリーナ号です。1853年(嘉永6年)に、ペリーがアメリカ合衆国の国書を持った艦隊をひきい、神奈川県の浦賀(横須賀市)に来航して正式に開港を求めました。幕府は鎖国を続けたいために返事に困り、来年を約束すると、ペリーは翌年1854年(安政元年)、再び艦隊をひきいて神奈川県(横浜)の海にいかりをおろし約束の返事をせまったので、幕府は「日米和親条約」という条約を結んでこの下田港と北海道の函館港の2つを開港場とし、鎖国が解かれることとなりました。

条約ができると、ペリーは艦隊で下田港に来て、開港場としての下田を調べながら「下田条約」という日米和親条約の細かな取り決めを日本の代表との間に結びました。同年、ロシアも開港をせまったので、使いのプチャーチンは軍艦ディアナ号で下田に入港、市内三丁目にある長楽寺で幕府と日露和親条約を結びました。安政3年、アメリカ合衆国からタウンゼント・ハリスが総領事として下田に来て、柿崎の玉泉寺がハリスの事務をとる領事館となりました。日米和親条約は貿易を認めなかったので、開港場と言えども航海に必要なまきや炭・その他の水や食料を買い入れるだけでしたが、観光としてみやげ物も売られていたようでそれについてペリーの著書にも江戸、その他から美しい品物が持ち込まれたと記載があります。

江戸に遠く、けわしい天城山をひかえていたので不便で、1859年(安政6年)日米通商条約が結ばれて横浜が貿易港として開港されると、下田港は賑わいを見せなくなりました。